こんなに鮮やかに晴れた日は、彼等の旅立ちを想起する。
私の家は昔から、なぜだか稀に、迷子のカメが滞在、逗留していきます。
それは、長雨の翌朝、玄関を開けると、こちらを真っ直ぐにみつめて、
「お世話になります」という風体で、忽然と姿を現わすのです。
そのカメ達をとりたててもてなすこともなかったけれど、邪険に追い払うこともしませんでした。
彼等は、庭先の石の上、芝生の緑、ツツジの木陰、木盥の水の中…
ようようの場所にくつろいで、逗留を楽しんでいるようでした。
私はカメに詳しくなかったし、別段すごく興味も湧かなかったけれど、家に動く者がいる感覚は新鮮で、
それも、坂の上にある我が家を選んで?やってきた訪問者に、ある親しみを持っていました。
それは、私以外の家族にも当て嵌まるようで、各々がなにげなく、カメ達の動向を観察しました。
不思議に思うことはいくつかありました。
家は川のそばでもなく、池があるわけでもありません。
ましてや、おいしい食事を出すわけでもありません。
記憶にあるのは、ご飯粒をあげたくらいで、それも果たして、食べたのかどうか…
カメ達は、いったいなぜ我が家なのか?カメしか知れない、道しるべでもあるのでしょうか?
どこから来て、それから、どこに行ってしまうのか…
庭先に遊ぶ様子は、いかにも呑気で、観察しているこちらも欠伸が出るくらいです。
一日中、同じ場所から動かない奴もいます。
にもかかわらず、やってくる時といなくなる時は、
消えてしまったようにその存在がパタンと「無」になるのです。
それは、なんともいえない空虚の念を、幼い私に植え込みました。
こんなミステリアスな現象のわりに、動くさまは相変わらず武骨で、キレもなく、
果たしてこの現象と事象につながりはあるのか…、そんな事を考え込んだりもしたものです。
訪問の驚きもさることながら、旅立ちはさらに突然でした。もちろん、挨拶などありません。
何匹かの旅立ちを経験して、私は、その後のカメの旅立ちを予見するようになりました。
朝起きて、空がまぶしいと窓を見て、鰯雲など出てる日は、旅立っていることが多いのでした。
私はその予見を、さりげなく、学校に出かける時に確認しました。
それから、旅立ったカメ達に再び出会うことはありません。
行きに依ったのなら、帰りも依って行けば良さそうなものだけど、
そんな律義なカメにはいまだ出会いません。
だけどもしかしたら、カメの世界では、年月の経過が、私が感じるより随分とゆっくりで、
カメにしてみたら、旅立ってからまだ幾日も過ぎてないかもしれません。
最近、なぜか、そう思えるようになりました。
「消えた」と直感したあの感覚は、カメ達がどこか別の時空に旅立った、
唯一の証しだったかもしれません。
あるいは、私もあの頃より年月を経て、
以前みたいに時間の流れを感じないからかもしれません。
いづれにしても、どれもこれもあやふやで、私の記憶さえもあやふやなようにも思われます。
だけど、確かに、カメはやってきたし、今日のような鮮やかに晴れた日にどこかへ旅立ったのです。
それは、焼きたてのクッキーの香りに、ある種のノスタルジーを感じるように、
私の中に染み込んでいて、こんな日には、思い出さないではいられないのです。
カメに名前をつければ良かった。